2016年版11月2日はタイガース記念日。由来や阪神タイガースの歴史について紹介
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はやりもの
こんにちは、ヒロです。
11月2日はタイガース記念日です。由来や阪神タイガースの歴史について紹介します。
Contents
- 1 阪神タイガース記念日
- 2 阪神タイガースの歴史
- 2.1 1930年以前
- 2.2 1930年代
- 2.3 1940年代の概要
- 2.4 戦前・戦中(1945年まで)
- 2.5 2リーグ制導入から天覧試合まで(1950年代)
- 2.6 『阪神タイガース』誕生と2度の優勝(1960年代)
- 2.6.1 1960年(昭和35年) ‐ セ・リーグ 3位
- 2.6.2 1961年(昭和36年) ‐ セ・リーグ 4位
- 2.6.3 1962年(昭和37年) ‐ セ・リーグ優勝
- 2.6.4 1963年(昭和38年) ‐ セ・リーグ3位
- 2.6.5 1964年(昭和39年) ‐ セ・リーグ優勝
- 2.6.6 1965年(昭和40年) ‐ セ・リーグ3位
- 2.6.7 1966年(昭和41年) ‐ セ・リーグ3位
- 2.6.8 1967年(昭和42年) ‐ セ・リーグ3位
- 2.6.9 1968年(昭和43年) ‐ セ・リーグ2位
- 2.6.10 1969年(昭和44年) ‐ セ・リーグ2位
- 2.6.11 1970年
- 2.6.12 1971年
- 2.6.13 1972年
- 2.6.14 1973年
- 2.6.15 1974年
- 2.6.16 1975年
- 2.6.17 1976年
- 2.6.18 1977年
- 2.6.19 1978年
- 2.6.20 1979年
- 2.6.21 1980年
- 2.6.22 1981年
- 2.6.23 1982年
- 2.6.24 1983年
- 2.6.25 1984年
- 2.6.26 1985年
- 2.7 暗黒時代(1986年~2001年)
- 3 まとめ
阪神タイガース記念日
タイガース後援会等が制定。
1985年のこの日、日本シリーズで阪神タイガースが西武ライオンズを破り、38年ぶり、2リーグ化後初の日本一になった。
関聯サイト •阪神タイガース http://www.hanshintigers.jp
阪神タイガースの歴史
1930年以前
1924年
甲子園球場誕生する。8月1日、阪神電車甲子園大運動場(現、阪神甲子園球場)が設立される。甲子の年に誕生したため甲子園。同年12月より、名物のツタを生やす。
1930年代
1934年
大日本東京野球倶楽部設立。日本3番目の職業野球球団として大日本東京野球倶楽部、球団名「東京ジャイアンツ」が設立。この大日本東京野球倶楽部は、野球を広めるため、米国大リーグの選手と公開試合をしながら日本各地を巡業した。この球団が後の読売ジャイアンツへとつながる。
1935年
大阪野球倶楽部誕生大阪野球倶楽部、球団名「大阪タイガース」が設立される。日本で設立4番目の職業野球球団である。この球団が我らが阪神タイガースとなり、現存するプロ球団なかで2番目に古い。
1936年
日本プロ野球、誕生する。2月5日、東京ジャイアンツ、大阪タイガース、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の7チームで、日本職業野球連盟(現、日本野球機構)が設立される。4月にはその連盟6チーム(東京ジャイアンツ不参加)で日本初のプロ野球リーグを開催される。さらに8月には連盟結成記念全日本野球選手権がトーナメントで開催され、9月-12月には第2回全日本野球選手権が開催。現代へと続く日本プロ野球が誕生した年である。
第2回全日本野球選手権記録
藤村富美男、本塁打王 2本。
藤井勇、最多安打 40本。
景浦將、最優秀防御率 0.79、最高勝率 1.00。
1937年 タイガース秋季優勝し、年間優勝。
春季・秋季の2リーグ制。大阪タイガース秋季優勝する。また優勝決定戦で4勝2敗で春季優勝の東京ジャイアンツを破り、年間優勝。春季記録
松木謙治郎、首位打者 .338、本塁打王 4本、最多安打 70本。
景浦將、打点王 47点。
山口政信、盗塁王 29個。
秋季記録
景浦將、首位打者 .333。
山口政信、盗塁王 29個。
西村幸生、最優秀防御率 1.48、最多勝15勝。
御園生崇男、最高勝率 1.000。
1938年
タイガース春季優勝し、年間でも史上初の2連覇達成。大阪タイガース、29勝6敗で春季優勝でプロ野球史上初の連覇を達成する。さらに年度優勝決定戦で、秋季優勝した東京ジャイアンツを破り、これも史上初の2年連続年間優勝。 この年、南海軍(現、福岡ホークス)誕生。
春季記録
景浦將、打点王 31点。
西村幸生、最優秀防御率 1.52。
御園生崇男、最高勝率 .909。
1939年 日本職業野球連盟が日本野球連盟に改称され、1リーグ制が導入される。
12月、石本秀一監督が辞任する。後任は松木謙治郎が兼任監督。
景浦將、応召され出兵する。
記録
若林忠志、最優秀防御率 1.09。
御園生崇男、最高勝率 .824。
1940年代の概要
発足間もない日本プロ野球界の中で、大阪タイガースは球界を代表する球団であった。しかし、球団も球界全体も歴史の波には抗えず、多くの名選手が戦争に応召され、そして多くが戦死していった。興行自体が存続の危機の中で、プロ野球界は1944年まで実施された。終戦明けて1946年から、すぐにプロ野球は復活した。まだ、甲子園球場も接収されたままであり、多くの選手が散り、各球団とも戦力がなかなか揃わない環境であった。しかし、野球みる社会の視点も大きく変わっていた。
それまでは、野球と言えば学生がする「遊び」という印象であり、社会的な盛り上がりまでには及んでいなかった。ところが一転戦後になると、日本に駐留した米軍が野球を奨励したこと。戦後の荒廃した国土に「希望」を与える「スポーツ」として野球が一気に広まっていった。そんな戦後復興期の野球ブームの中で、大阪タイガースも藤村富美男や七色の変化球若林忠志を筆頭に、戦前輝きを取り戻していった。
ところが、1949年オフ。やっとの思いで戦争の傷を癒しつつあった阪神に、再び球団を壊滅的な状況に陥しいれる事件が発生する。若林の裏切りと、毎日の大量引き抜き事件である。
戦前・戦中(1945年まで)
1940年
9月、英語が敵性語となる。それに伴い、球団名「大阪タイガース」から「阪神軍」に改称される。8月3日、三輪八郎、対巨人戦で球団史上初のノーヒットノーランを達成
三輪八郎、最高勝率 .762。
1941年
松木謙治郎選手兼任監督、引退および退任。後任は若林忠志が選手兼任監督に就任。1943年
影浦將の復帰と引退1939年の応召から無事帰還するも、家業を継ぐためこの年で引退。ちなみに、翌1944年再度応召され、1945年フィリピンで戦死。 三輪八郎、応召。翌1944年、中国にて戦死。
甲子園球場の大鉄傘、戦争資材として供出される。
1944年
阪神優勝若林忠志等の活躍で、阪神27勝6敗で6年ぶりの優勝をはたす。しかしこの年戦争の影響で、各チーム35試合しか開催できなかった。また各球団の選手も応召され、プロ野球界全体で人材を著しく欠いていた。それもあり、35試合中31試合に若林が登板し、また球団全体で27勝のうち21勝を上げている。この選手不足の苦しい状況は、戦後1950年頃まで続いた。
記録
若林忠志、最優秀選手、最優秀防御率 1.56、最多勝利 22勝、最高勝率 .846。
藤村富美男、打点王 25点
呉昌征、盗塁王 19個
1945年 戦争により、開催されず。
戦後復興期(1945年~1949年)編集
1946年
日本プロ野球は2年ぶり再開プロ野球再開された。3月25日には「阪神軍」からもとの「大阪タイガース」に球団名を戻し、監督には藤村富美男が兼任する。ただし駐留軍に甲子園球場を接収されていたため、西宮球場が大阪タイガースの本拠地として代用される。また、高校野球も西宮球場で行われた。 復帰選手の流出
兵役についていた藤井勇が、阪神から許可なくパシフィックへ入団するといった事態が起こった。どうも戦後のドタバタを利用したパシフィックの策略であったようである。巨人も2選手同じ事態が起こったため、両球団がパシフィックを提訴。パシフィックの3試合を敗戦扱いにされた。 ダイナマイト打線誕生
9月、打撃ランキングにおいて、渡辺、藤村、金田、富樫、土井垣、本堂、長谷川と7選手が入った際、日刊スポーツがこの破壊的な猛虎打線をダイナマイト打線と形容した。さらに別当、後藤を加え1949年頃までダイナマイト打線は続く。
記録
金田正泰、首位打者 .347、最多安打 152本。
呉昌征、ノーヒットノーラン 6月16日、対セネタース戦にて球団2人目、戦後初。
1947年
大阪タイガース優勝若林忠志が疎開先の石巻から戻り、選手兼任監督として復帰。その若林やダイナマイト打線が大活躍し、球団4度目戦後初の優勝を果たす。また甲子園もこの年の初め1月10日、接収が解除され、再び使用できるようになる。さらに5月にはラッキーゾーンが設置された。野球自体も戦後の娯楽として急速に人気を集め、少年達の憧れのスポーツとなっていった。
記録
若林忠志、最高殊勲選手
御園生崇男、最優秀勝率 .750
藤村富美男、打点王 71点
1948年
デイリースポーツ誕生。2008年で60周年。1949年
物干し竿この年、藤村富美男が物干し竿を引っさげ、大活躍をする。それまで、20数本が精一杯だった本塁打記録を46本とするなど、それまでの打撃日本記録を次々に塗り替えた。ダイナマイト打線がもっとも強力であった年である。 プロ野球再編問題
毎日(現、千葉ロッテマリーンズ)など新規加盟を望む団体が増え、その扱いを巡りプロ野球再編問題が勃発。結果的には、セ・パ2リーグ制に分かれ、12月、セントラル野球連盟発足される。再編問題にともない、タイガースは毎日の激しい怒りをかい、若林などの主力選手の3分の2を大量に引き抜かれる。これにより、全盛期のダイナマイト打線は突然消滅した。監督には松木謙治郎が再就任する。[1]
記録
藤村富美男、最優秀選手、本塁打王 46本、打点王 142点、最多安打 187本。
2リーグ制導入から天覧試合まで(1950年代)
概要
戦後、藤村が、別当が、若林が、そしてダイナマイト打線が猛威をふるった。しかし実状は、本社が戦後の鉄道復興で何かと費用がかかり、球団の選手層は薄く、ぎりぎりの人員で毎試合を戦っていた。しかも、他球団と比してそれほど多くない給料であった。
そういった中、若林兼任監督自らが金銭に目がくらみ、1949年オフ、突然新設の毎日オリオンズに裏切っていった。しかも手土産に、別当などの主戦力の大部分を連れて行ったため、スタメンの3分の1しか残っていない、球団存亡の危機となってしまった。それでも、金銭では動かなかった藤村と金田は阪神に留まった。そしてタイガースが生んだ名将松木謙治郎が監督に復帰し、再びゼロからのスタートを切った。
最悪の状態で1950年代をスタートしたが、名将松木の元、数年で優勝争いするまでに甦っていった。ところが今度は難波事件の責任をとるかたちで、1954年、その松木が辞めていった。球団は次期監督の扱いをめぐり、藤村達古参の選手の意見を無視し、反発をまねくするなどし失敗する。仕方なく藤村を兼任監督にするも、1956年オフ、今度は藤村が選手の大反乱にあう。1950年代のタイガースは、舞台裏がまるで落ち着かない状況が延々と続いていった。
そんな藤村も1958年に引退し、創設からの英雄達の時代に終止符が打たれた。その藤村の引退試合が1959年オープン戦第一戦に行われたが、その時の阪神の先発は、二人目のミスタータイガースとなる村山実のデビュー戦でもあった。古い時代の終わりは、新しい時代の始まりでもあった。そしてこの年6月、村山対長嶋で有名な天覧試合が行われる。
1950年
2リーグ制開始する。シーズン4位
70勝67敗3分で全8チーム中4位。レギュラーの3分の2を毎日に引き抜かれたタイガースは、この戦力の大幅なダウンのダメージは大きく、既存のチームのなかでは最下位であった。一方引き抜いた毎日オリオンズは、球団結成初年度で日本一を達成した。タイガースは、数年かけてなんとか戦力建て直しを図るも、水原監督率いる巨人に一歩遅れをとる状況が50年代は続く。 ファーム誕生
毎日の引抜により新戦力育成が重要になったこともあり、この年ファームが誕生した。 ポジション別背番号制
この年、背番号をポジション別に改めた。1から8を投手、9を監督、10を助監督、11を主将、12から14を捕手、15から20を内野手、21から24を外野手とし、それ以降をファームの選手とした。途中に監督、助監督を入れたのは、松木謙治郎と藤村富美男の背番号9と10を変えないためであったと言われている。
記録
藤村富美男、首位打者 .362、最多安打 191本。 最多安打191本は、1994年にイチローに破られるまで日本記録として続いた。
1951年
シーズン3位62勝51敗3分で全7チーム中3位。 7月4日、プロ野球初のオールスター戦を甲子園で開催。
8月11日、甲子園球場の銀傘復活
個人成績・記録
後藤次男、最多安打 155本。
藤村富美男、ベストナイン 3塁手。
金田正泰、ベストナイン 外野手、年間最多三塁打 18本
1952年
シーズン2位79勝40敗1分で全6チーム中2位。この年よりセ・リーグ6チーム制が固定される。タイガースは壊滅された戦力を順調に回復していった。 ノーヒットノーラン
5月7日、松竹より移籍したばかりの真田重男が対広島戦(甲子園)でノーヒットノーランを達成。球団4人目。
個人成績・記録
梶岡忠義、最優秀防御率 1.71
藤村隆男、最優秀勝率 .806(25勝6敗)
藤村富美男、ベストナイン 三塁手。
1953年
シーズン2位74勝56敗、勝率.569。この年吉田義男が入団。ハワイから与儀真助を獲得する。 プロ野球放送始まる
8月29日、史上初のプロ野球TV放送が行われる。対巨人戦、後楽園球場である。ここから、家でも観戦できるようになっていき、野球が国民的スポーツの地位を確立していく。ちなみにこの試合は2-6で敗れている。
個人記録
藤村富美男、本塁打王 27本、打点王 98点。
与儀真助、ベストナイン 3塁手。
金田正泰、ベストナイン 外野手。
1954年
71勝57敗2分でシーズン3位放棄試合
7月27日、大阪球場対中日戦、誤審に端を欲する乱入事件により、藤村の当時連続試合記録が1014試合で途絶える。その余波で、松木監督がこの年限りで勇退し、11月に岸一郎が監督に就任する。 → 難波事件参照 阪神ジャガース
ファームを「阪神ジャガース」に改める。1956年まで。
個人記録
渡辺博之、打点王 91点、ベストナイン 外野手。
吉田義男、盗塁王 51個。
1955年
シーズン3位5月21日、岸監督辞任する。後任は藤村富美男が選手兼任監督となる。
→ 岸一郎参照
個人記録
西村一孔、最優秀新人賞
タイガースで3人目のルーキー開幕投手。60試合に登板し22勝17敗、防御率2.01で新人王。 吉田義男、最多安打 147本、ベストナイン 遊撃手。
渡辺博之、ベストナイン 外野手。
藤村富美男、史上初の200号本塁打達成(4月12日)
1956年
シーズン2位 – 79勝50敗1分甲子園球場にナイター設備
6月24日、藤村代打逆転サヨナラ満塁本塁打 → 代打、ワシや参照
オフに藤村監督問題起こる。
個人記録
吉田義男、盗塁王、ベストナイン 遊撃手。
渡辺省三、最優秀防御率 1.45。
田宮謙次郎、ベストナイン 外野手。
1957年 セ・リーグ2位
風邪で優勝を逃す!!
この年、巨人が開幕5連勝するも、エース別所、大友らが不調。そのため優勝争いは、阪神と中日が激しく争う年となった。しかしこの年、悪性の流感が流行し、プロ野球も例外ではなかった。その中でも大阪タイガースがもっとも深刻な影響を受けた。たとえば6月4日の対国鉄戦には、たった15名前後の選手しか試合が行えない状況であった。その後も戦力が揃わず、この試合から7連敗し、首位争いから一歩後退した。その後何とか巻き返し、8月には首位に立つも、最終的に優勝を逃す。 田中義雄監督就任、藤村現役復帰
11月25日、田中義雄が監督として就任。藤村は、現役復帰を表明。
個人記録
三宅秀史、ベストナイン 三塁手
吉田義男、ベストナイン 遊撃手
田宮謙次郎、ベストナイン 外野手
1958年 (昭和33年) – セ・リーグ2位
9月下旬の5連敗この年巨人は開幕3連敗し、4月負け越しと低迷なスタートであった。しかし、5月に入ると、藤田投手と新人の長嶋秀雄が活躍しだす。阪神は、8月巨人相手に5連勝し、0.5ゲーム差まで肉薄するが、9月下旬に5連敗しこの年終戦。最終成績、72勝58敗。首位巨人との差5.5ゲーム。 時代の終わり
この年のオフで、藤村が現役引退し、球団顧問に就任。背番号10は永久欠番となった。同じく球団創設から虎戦士、御園生も健康上の理由から退団。また、首位打者をとった田宮がA級10年選手の権利で大毎に移籍。 個人記録 田宮謙次郎、首位打者 .320、ベストナイン 外野手
吉田義男、ベストナイン 遊撃手
1959年 (昭和34年) - セ・リーグ2位
天覧試合6月25日、後楽園球場巨人‐阪神戦。天皇、皇后両陛下を迎え、野球史上初の天覧試合が挙行された。巨人先発藤田と、阪神は7回からリリーフにあがった新人村山実が好投。白熱した戦いが続き、両陛下も最後までご覧になられる好ゲームであったが。そして4対4で迎えた9回裏…(続きは天覧試合で) 二人目のミスタータイガースの登場
この年、オープン戦の最初の試合阪神巨人戦は、藤村の引退試合が行われた。それが二代目ミスタータイガースとなる村山の初登板の日でもあった。この年新人の村山が、54試合に登板し18勝10敗で、防御率1.19という最優秀投手賞とともに、新人ながら沢村賞を受賞した。 個人記録 村山実、沢村賞、最優秀防御率 1.19
藤本勝巳、ベストナイン 1塁手
吉田義男、ベストナイン 遊撃手
『阪神タイガース』誕生と2度の優勝(1960年代)
1960年(昭和35年) ‐ セ・リーグ 3位
前年度最下位の大洋が優勝?!前年度、2位阪神と13ゲーム差と断トツの優勝であった、巨人は戦力が揃わず3位に沈む。そして肝心のタイガースは、打線はチーム打率1位をマークし、藤本が本塁打王、打点王になるなど、大きな活躍を示していた。しかし投手陣が小山が25勝19敗と活躍した以外に目立った活躍が無く、特に村山が8勝15敗と2年目のジンクスに苦しんだことが大きく響き、最終3位。優勝したのは、三原監督が率いた前年最下位の大洋であった。 金田監督
この年と翌年は、田中に代わり金田が監督に就任している。また、この年阪急の監督を辞任した藤本定義が投手コーチとして就任している。 個人記録 藤本勝巳、本塁打王 22本、打点王 76点
吉田義男、ベストナイン 遊撃手
並木輝男、ベストナイン 外野手
1961年(昭和36年) ‐ セ・リーグ 4位
阪神タイガース誕生!!4月1日、球団社名が大阪タイガースから株式会社阪神タイガースと変更された。それにともない、大阪タイガースの歌も阪神タイガースの歌となり、今の歌詞となった。 金田監督、シーズン途中で休養退任
この年、阪神は開幕から投・打がかみ合わず連敗を重ね低迷する。6月6日には、金田監督が休養を表明し、オフにそのまま退任することになる。代わって球史に残る名将、藤本定義が投手コーチから監督代理となる。しかし、名将の指揮もシーズン途中からでは追いつかず、60勝67敗3分で12年ぶりBクラス。特に、不動の1番吉田義男の不調が響いた。 個人記録 藤本勝巳、ベストナイン 一塁手
1962年(昭和37年) ‐ セ・リーグ優勝
大洋との熾烈な優勝争いの果て、阪神タイガース優勝する阪神タイガースは、オフに藤本定義が正式に監督に就任。名将の采配の下、開幕から巨人に2連勝し一気に勢いに乗る。後半まで大洋と首位争いをつづけるが、9月25日、26日に大洋に連敗苦しい状況に追い込まれる。しかし、大洋もその後連敗し、10月3日、阪神甲子園球場。6対0で広島を破り、15年ぶり、2リーグ制では初の優勝を果たした。 村山・小山の2枚エース
村山、57試合22勝11敗、防御率首位。小山、47試合27勝11敗防御率2位。この両エースの活躍が際立った。 日本一を逃す
この年、東映との日本選手権に2連勝するも引き分けの後4連敗し、日本一を逃す。 村山、デトロイト・タイガースを完封する
10月27日、東京球場におけるデトロイト・タイガース対全日本は皇太子ご夫婦の観覧戦となった。この時の全日本投手は、村山実。そして村山はメジャーリーグに対し、日本野球史上初の完封勝利投手となった。 個人記録 村山実、最優秀選手、最優秀防御率 1.20、ベストナイン 投手
小山正明、最多奪三振 270個、最高勝率 .711
吉田義男、ベストナイン 遊撃手
並木輝男、ベストナイン 外野手
1963年(昭和38年) ‐ セ・リーグ3位
デトロイト・タイガース余計なアドバイスをこの年の2月、アメリカ、デトロイト・タイガースのキャンプに参加。しかしなんと向こうのコーチから「開幕から2ヶ月も前からハードにトレーニングする必要はないよ」とアドバイスされ、真に受けた選手たちは、昨年度優勝の慢心も加わり海外キャンプはもう旅行気分となってしまった。本格的な練習をせず、基礎づくりが間に合わなかった。結局これがひびき、阪神はスタートから不調。そのままの調子でずるずるとシーズンを終えた。ベストナインを含め、個人タイトルを一人も取れない年であった。 小山と山内の交換トレード
12月26日、阪神の2枚エースの小山正明と大毎の主砲山内一弘との主力同士の交換トレードが成立した。両者ともトレード後も活躍し、理想的なトレードと評されている。
1964年(昭和39年) ‐ セ・リーグ優勝
大洋と阪神の熾烈、熾烈なシーソーゲーム!!6月までは、巨人を含めた3チームの首位争いであったが、その巨人が脱落。大洋と阪神が、首位を何度も入れ替わる熾烈な優勝争いを9月下旬まで続けた。9月25日、大洋は2.5ゲーム差で首位で最後2試合が阪神との直接ダブルヘッダー対決。一試合でも勝てば、大洋の優勝が決まる。しかし、小山の抜けた後を見事に埋めたバッキーと、村山の好投で阪神勝利する。これで0.5ゲーム差に縮め、阪神も残り3試合。あと一試合も負けられない状況で、9月29日バッキー国鉄に勝率する。 そして運命の9月30日、中日とのダブルヘッダーに連勝し、2年ぶりの優勝を決めた。 飛車と角、助さん格さん、バッキー・村山
バッキー29勝9敗、村山22勝18敗。阪神の80勝56敗4分けであったが、二人で6割以上の勝利を上げていた。 特にバッキーは、巨人の王が本塁打55本の日本記録を達成したこともありMVPこそ逃したが、外人初の沢村賞を受賞した。 猛烈日程、スタンカ、そしてあの人がタイガースに襲いかかる
この年、東京オリンピックが開催されたため、ダブル・ヘッダーで優勝を決めた9月30日の翌日には、南海との日本シリーズ(日本選手権試合)が開催されるという超猛烈な日程であった。あまりの連戦に虎戦士も完全に疲弊しており、村山が一勝もできない状態であった。それでも3勝3敗まで詰め寄ったが、パ・リーグMVP投手スタンカの押し切られた。スタンカは4勝中3勝する大活躍。また、この時タイガースの前に大きく立ちはだかったパ・リーグ2冠王の名捕手がいた。野村克也である。 個人記録・タイトル バッキー、沢村賞、最優秀防御率 1.89、最多勝利 29勝、ベストナイン 投手
石川緑、最高勝率 .769 (10勝3敗)
吉田義男、ベストナイン 遊撃手
1965年(昭和40年) ‐ セ・リーグ3位
投高打低村山25勝、バッキーも18勝を上げ、巨人相手にノーヒットノーランを達成するなど、投手王国を維持し続けた。チーム防御率も、優勝した前年以上の2.47とリーグ1位をキープしていた。一方チーム打率.220でリーグ最下位。吉田義男の.265がチーム首位という体たらく。これではどうしようもなかった。 名将、ユニフォームを脱ぐ…はずだったが
プロ野球創設から、数々のチームで優勝を導き、阪神にも2度の優勝をもたらした稀代の名将藤本定義。タイガースを監督最後の球団と選び、前年のシーズンをもって輝かしい監督人生を終えた…かに思えた。 個人記録・タイトル 村山実、沢村賞、最多勝利 25勝、最多奪三振 205個、ベストナイン 投手
吉田義男、ベストナイン 遊撃手
山内一弘、プロ野球初の300号本塁打(7月4日、対巨人戦)
1966年(昭和41年) ‐ セ・リーグ3位
新監督はフォークの神様…落ちるこの年、藤本の後に監督を継いだのは、1964年から投手コーチに入っていた杉下茂が昇格した。しかし、4月下旬に5連敗、6月下旬に6連敗。頼みの村山・バッキーもバッキーが不調。8月9日からの巨人3連戦に3タコをくらい、杉下監督心労でダウン。これにより、前年ユニフォームを脱ぎ総監督になっていた藤本が緊急に指揮を取った。この後、何とか勝ち星も増やしていったが、前半の借金が尾を引き3位がやっとの状況であった。 つながらない打線…孤軍奮闘、村山実
チーム打率5位の.233と、打線がつながらない状況は続いた。しかし、そんな状況でも、村山実は24勝と2年連続の最多勝をあげ、沢村賞も2年連続獲得した。 個人記録・タイトル 村山実、沢村賞、最多勝利 24勝、最多奪三振 207個、ベストナイン 投手
1967年(昭和42年) ‐ セ・リーグ3位
新戦力台頭する新人江夏豊が入団。初年度から、村山の18勝に続く球団2位の12勝をあげる。また最多奪三振225個を記録する。また野手でも、2年目の藤田平が球団3位の.291の打率と本塁打16本をあげるなどの活躍を見せた。オールスターやベストナインにも選ばれ、プロ野球史上最高のショートストッパー・吉田義男から、見事に遊撃手の座を継承した。 二度目の放棄試合
9月23日、大洋戦。ふり逃げをめぐりるトラブルを発端に、阪神に対し放棄試合が宣告される。 個人記録・タイトル 藤田平、最多安打 154本、ベストナイン 遊撃手
権藤正利、最優秀防御率 1.40
江夏豊、最多奪三振 225個
1968年(昭和43年) ‐ セ・リーグ2位
前半の不調、夏の猛追、新エース江夏の連投開幕5連敗でこの年をスタートした阪神。懸念の打撃不振はこの年も続く。頼みの投手陣も村山が前半戦不調で、6月には右手首炎症で入院し、7月まで戦線離脱するという事態にまで陥った。8月にはやっと調子を取り戻し、7連勝、1敗後の9連勝、月間でも19勝2敗。8月はじめに10.5ゲーム差あった首位巨人に、1.5ゲーム差まで猛追した。しかし、そこで夏の疲れがたまってきたのか、9月には勢いが止まり、28日からの巨人直接対決で、連投の江夏が打ち込まれ負け越し、終戦を迎えた。最終的に5ゲーム差の2位。 投高打低がつづく
この年、村山が前半不調も15勝8敗の好成績を残す。さらには、2年目の江夏が、数々のタイトルや三振記録を築き、新たな阪神のエースとなった。残念なことに、オフに近鉄へ移籍したバッキーであるが、阪神での最後のシーズンも13勝をあげ、8年連続2桁勝利を記録した。チーム防御率も2.67とセ・リーグ1位であった。一方打撃陣は、チーム打率.229と低迷し、長年球団が抱えている最大の課題を解決できていなかった。 個人記録・タイトル 江夏豊、最多勝利 25勝、最多奪三振 401個(日本新記録)、最優秀投手賞、1試合16奪三振のセ・リーグタイ記録(8月8日、対中日戦)
1969年(昭和44年) ‐ セ・リーグ2位
いよいよ深刻な貧打この年、防御率1位から3位までを江夏、村山、鈴木と阪神の選手が独占した。しかし一方、積年の課題低調な打線は、チーム打率.222と一向に回復の兆しを見せなかった。これが足をひっぱり、防御率2位、3位の村山、すずきまで負け越すという状態にまで陥った。シーズンを通じて、巨人との競り合いを続けるも、この状況では勝ちきれず、最終的に6.5ゲーム差をつけられ2位。 藤本、今度こそ監督引退。村山、吉田兼任コーチへ
藤本が、前年度で監督を引退し、後藤監督へと継承された。さらなにこの年、エース村山と、史上最高のショート吉田義男が、将来の球団幹部育成のため兼任コーチとなった。 田淵の登場。吉田の引退
田淵がドラフト1位で加入。初年度から本塁打22本、打点55をあげ新人賞を獲得。一方、1954年に新人王を獲得した、牛若丸・吉田義男がこの年オフに引退する。 個人記録・タイトル 田淵幸一、最優秀新人
江夏豊、最優秀防御率 1.81、最多奪三振 262個
藤田平、ベストナイン 遊撃手
日本一へ(1970年~1985年)
1970年
シーズン2位村山実、最優秀防御率 0.98(戦後日本記録)
1971年
シーズン5位1972年
シーズン2位1973年
シーズン2位シーズン終盤になっても1位のまま残り2試合となり、1敗1引き分けでも巨人のV9を阻止できるはずだったが、2敗して2位に終わる。
最終戦の10月22日は甲子園で巨人との優勝をかけた直接対決となる。しかし0-9と惨敗し、ふがいない試合を見せさせられたファンが暴徒と化して試合終了直後に巨人のベンチを強襲、巨人選手は胴上げもできずに一目散に逃げざるを得ず、また王貞治などがファンの下駄で殴られる事態に至った。
1974年
シーズン4位1975年
シーズン3位安仁屋宗八、最優秀防御率 1.91
1976年
シーズン2位1977年
シーズン4位1978年
シーズン最下位3月、月刊タイガース創刊。2008年で30周年。
ドラフト1位で江川卓入団するも、翌年小林繁と交換トレード。
1979年
シーズン4位ドラフト1位で岡田(元監督)入団
1980年
シーズン5位岡田新人王。
1981年
シーズン3位1982年
シーズン3位1983年
シーズン4位福間納、最優秀防御率 2.62
1984年
シーズン4位1985年
21年ぶり優勝。そしてタイガース唯一の日本一。日本シリーズで西武ライオンズを4勝2敗で下し、日本一。 4月17日、3番ランディ・バース 4番掛布 5番岡田。巨人の槙原からバックスクリーン3連発ホームラン。 ランディ・バース鬼神の活躍
本塁打54、打点134、打率.350で三冠王達成。他に最多安打、勝利打点、出塁率で打撃6冠。日本シリーズ3試合連続ホームラン。シーズン、日本シリーズ共にMVPと鬼神の活躍。
暗黒時代(1986年~2001年)
1986年
シーズン3位。バース二年続けて三冠王
本塁打47、打点109、打率.389で三冠王。打率は日本新記録。他に4打席連続ホームラン、7試合連続ホームランで日本タイ記録。13試合連続打点記録、長打率.777は未だ日本記録。しかし、翌年吉田監督との確執が深くなり、活躍が低迷し、1988年、子供の病気の対処をめぐり突如解雇される。のちに球団の不手際が原因であったことが発覚するなど、このあたりから球団経営の不透明さが戦力低下の一因として、如実に表われてくるようになる。 1987年 シーズン最下位、球団ワースト勝率.331
吉田監督退団するも特別功労賞受賞。背番号23が永久欠番に。
マット・キーオ入団。低迷するタイガースにおいて孤軍奮闘する。(1991年退団。)
1988年
シーズン2年連続最下位和田、大野、中野の少年隊
バース、突然解雇
ランディ・バース、長男の病気療養ため5月に帰国、そのままシーズン途中の9月に解雇。ファンに神のごとくの崇められるほどの選手であったバースの解雇劇の詳細は長らく不詳であった。球団側は休養の間にバースの戦力が低下したことを理由にしていたが、バース本人が著書で球団が契約上の加入義務であった保険に実際は未加入であり、その違約金が払えないための解雇であったことを明かしている。 1989年 シーズン5位
セシル・フィルダー、大洋戦での3打席連続ホームラン、同一カード8試合連続ホームランなど、最下位大洋には力を発揮した。
ドラフト1位で葛西、5位で新庄入団。
1990年
シーズン最下位川藤 守備走塁コーチ
オフにニューヨーク・メッツからオマリーを獲得。
ドラフト1位湯舟加入
1991年
シーズン2年連続最下位開幕5連敗は球団ワースト記録
オフに阪神甲子園球場のラッキーゾーン撤去される。
オフに阪神タイガース、たけし軍団に敗れる。(→阪神13位)
大洋からパチョレック獲得
ドラフト2位で久慈、4位で桧山入団
1992年
激しい優勝争いを続けるも、シーズン2位最後までヤクルトと優勝を争うも、最終的には巨人と同率2位で終わる。このシーズンの優勝争いでは、はフェンス上部にあたって取り消された、八木の幻のサヨナラホームランや、応援団の旗にかかり取り消されるホームランなど、「もしもあれがなければ」というシーンの多いシーズンであった。優勝争いを続けた相手球団ヤクルトの監督は、野村監督であった。この後、野村ヤクルトと長島巨人の天下が数年続く。 若虎大活躍
湯舟、ノーヒットノーラン達成。久慈、新人王。他にも新庄、亀山といった若虎の活躍が目立った年であった。 1993年 シーズン4位
郭李来日。初勝利をあげる。
FA制度がこの年開始し松永騒動が発生する。
ドラフト1位で藪入団
1994年
シーズン5位オマリー3年連続最高出塁率達成
藪新人王。
1995年
阪神・淡路大震災発生。タイガース、被災者のためにも優勝を約束するも、シーズン早々に失速し最下位。イチローのいたオリックスは優勝し、被災者との約束を実行した。このころが、もっともタイガースの状態がひどいころであった。新庄、引退発言騒動。このころから、突然やめますという癖があった。
1996年
シーズン2年連続最下位。新庄正座事件。[1]
新庄、塩谷の1イニング2満塁ホームラン。[2]
ドラフト1位で今岡、2位で関本、3位で濱中が入団。
1997年
シーズン5位グリーンウェルの悪夢
球団史上最高年俸(推定3億円)でグリーンウェルを獲得するも、神の御告げがあるから引退するという理由でGWに帰国。球団経営のお粗末さが露呈する。この年頃から「負けても負けてもファンが来るから楽だ」という風に球団経営陣が言ったという噂がファンの間で流れ始める。 オールスターにおいて新庄、応援ボイコットを受ける。
ドラフト2位で井川、4位で坪井入団。
1998年
1回目の最下位ファンにとって夢も希望も無い時期が続き、とうとう甲子園のライトスタンドも空席が目立つようになってきていた。 野村克也ヤクルト監督、電撃的にタイガースの監督に就任。ついでにサッチーとカツノリ(翌年)もついてくる。
ドラフト1位で藤川、3位で福原入団。
新人の坪井が打率.327の好成績。
5月26日の中日戦で川尻がノーヒットノーランを達成。
1999年
2年連続最下位野村監督のID野球が一定の成果を出し、前半戦は首位に立つこともあり、ファンは一時の夢を見ることができた。 6月12日、新庄、巨人槇原からの敬遠球を三遊間に打ち、サヨナラヒット。
2000年
3年連続最下位葛西⇔遠山と1塁と投手を行ったり来たりする継投が話題をよぶが、他チームとの長年に渡って開いていた戦力不足は明白で、最終的には最下位。 新庄大リーグへ
野村監督がID野球を叩き込もうと、四苦八苦した新庄であったが、後から考えると新庄にそのような野球が合うはずも無く、ニューヨーク・メッツへFA移籍。その後、まさかの大活躍を見せる。 ドラフト1位で藤田太陽、3位で狩野、4位で赤星、7位で藤本が入団。
F1セブン結成。数年後上坂太一郎は、公道でポールポジションをとり、スピードスターとなる
2001年
4年連続最下位野村監督の下、着実に戦力補強の跡は見られるも、連続最下位、サッチー騒動もありファンの信任を失う。3年契約もあり、退団。後任は、星野中日監督がタイガース監督に就任。事前に大阪スポーツがそれをすっぱ抜いたときは、誰も信用していなかった。 ドラフト自由枠で安藤、4巡目で桜井広大入団
時期調査中 来期のエースと4番はまだ見ぬ新外国人
桧山のショートフライ
2002年
5年ぶり最下位を脱出し4位闘将星野監督は、まずはタイガースに深く根付く負け癖の一掃を図った。オープン戦から全力で勝つことを徹底させた。オープン戦首位、開幕12年ぶり勝利、64年ぶり開幕7連勝と開幕奪取に成功した。W杯の間に連敗し最終的に4位に終わるも、タイガースに一筋の希望が見えた年であった。
井川、206Kで最多奪三振
赤星、26盗塁で2年連続盗塁王
星野監督、半ば強引にFAで金本選手を引き抜く
ドラフト自由枠で杉山、江草、5順目で久保田、7順目で林威助が入団
2003年
18年ぶりセ・リーグ優勝9月15日、18年ぶりセ・リーグ優勝。プロ野球史上初、4ヶ月連続15勝を達成するなど、最初から最後までぶっちぎりの首位であった。11月3日優勝パレード。闘将星野監督、翌日各誌に自費でファンへ一面広告を掲載する。優勝2日前、星野監督の母親が逝去されていたことがのちに判明。この年、日本シリーズを前に星野監督、勇退を発表。後任は現岡田監督。 9月15日から16日にかけて、のべ5300人が道頓堀に飛び込む。東京のアナウンサーが冷静にたしなめるも、大阪のアナウンサーがそれに対し、涙声で「これでいいんです」とコメントする。 井川、最多勝利、最優秀防御率 2.80、リーグMVP、沢村賞。
今岡、首位打者。
赤星、61盗塁で3年連続盗塁王
2004年
シーズン4位井川、ノーヒットノーラン達成。228Kで最多奪三振。
金本、113で最多打点。
赤星、64で4年連続盗塁王
ドラフト自由枠で能見、4巡目で橋本健太郎、6巡目で赤松入団。
2005年
セ・リーグ優勝9月7日、2位中日とのシーズン最大の天王山。審判の誤審が続き荒れた試合になったが、延長11回、中村豊の1号ホームランで勝負が決する。これでこのシーズンは勝負が決まり、そのまま突っ走り9月30日2年ぶりセ・リーグ優勝。ただし、タイガースファンにとっては、この年日本シリーズは濃霧やなんやらの諸事情により、開催されなかったことになっている。この年以降、落合中日とタイガースとの優勝争いが熾烈になる。 金本、リーグMVP。
今岡、147打点で最多打点賞。
下柳、15勝で最多勝。
赤星、60盗塁で5年連続盗塁王。
藤川、シーズン80試合登板で日本記録。
2006年
シーズン2位球児の涙から発する歴史に残る猛追を見せ、8月末に首位中日との9ゲーム差を埋めるも、今一歩足りず最終的には2位に終わる。 村上タイガース騒動
金本が904試合フルイニング出場世界記録達成(記録継続中)。
藤川47回2/3無失点の球団記録更新。2年連続最優秀中継ぎ投手賞。
井川194Kで最多奪三振。ポスティングでヤンキースに移籍。
ドラフト大学・社会人枠3巡目で上園入団。
2007年
シーズン3位巨人、中日、阪神の3強とそれ以外の力の差がはっきりと分かれたシーズンであった。8月下旬から9月にかけて、25年ぶりに10連勝、藤川10連投。一時首位に立つも、その後連敗が重なり、最終的には3位。この年から始まったクライマックスシーズンでは、シーズン2位の中日に敗れる。中日はそのまま、巨人、日ハムを破り日本一へ。 4月3日、金本が対ヤクルト戦にてバースデー逆転満塁ホームランを決める。
5月に7年ぶり9連敗。
上園新人賞
藤川最多セーブ投手
10月、この年から阪神甲子園球場が改修工事に入る。2010年までに3期に分けて改修する。
11月、北京五輪アジア予選で、矢野、藤川、新井(当時広島)が出場。
2008年
新井貴浩が広島よりFAで移籍。金本の後輩であり、入団早々いじられまくる。濱中治がオリックスへ移籍。代わってが平野入団。
3月、春の選抜高校野球の前に甲子園の第1期改修工事が終了。内野席が大幅に改修。高校野球大会前日に、照明電源が切れる(原因不明)といったハプニングが起こる。
4月12日、対横浜5回戦横浜スタジアム。金本通算2000本安打、新井通算1000本安打達成。
7月8日、宿敵の巨人に13ゲームをつけ、1962年の南海ホークス(7月6日)に次ぐ速さでマジックナンバー49を点灯させる。
ここから阪神は優勝へ向け、ダントツで独走体制を固める……はずだった。 10月8日、この日は1973年10月22日同様に阪神ファンにとって永遠に忘れられない屈辱の日となる。
10月10日、横浜で阪神ファンが涙を流す。
金本にとっては同じ相手から12年前と同じ屈辱を味わうことが決定した日となった。 10月20日、岡田監督が胴上げされる。8月以降の試合を見なかったことにすれば、この年のファンの思い出は美しく飾られるであろう。
ペナントの最終成績は?CSは?日本シリーズは? そんな質問を阪神ファンにしてはいけません。
まとめ
タイガース記念日ということでタイガースの歴史について紹介しました。こういう日は過去の思い出に浸ってもいいかもしれないですね。
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