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モハメドアリの生涯とは?アントニオ猪木、6月4日伝説のボクサーの訃報にコメント

公開日: : 最終更新日:2016/06/05 スポーツ関連


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こんにちは、ヒロです。

2016年6月4日、伝説のボクサー、モハメド アリの訃報が流れました。
モハメドアリは、ただのボクシング世界チャンピオンではなく、複数団体の統一チャンピオンになるほどの伝説のボクサーでした。
モハメトアリの伝説を風化させない為にも生涯を記事にします。

各人コメント

アントニオ猪木コメント

「人生を闘い抜いた」
「体調を崩していると聞いて心配していたが、かつてのライバルたちを見送ることは非常につらい」とのコメントを発表した。
猪木、アリ両氏による格闘技世界一決定戦は1976年6月26日に実現し、日本記念日協会が先月、この日を「世界格闘技の日」に制定したばかり。猪木氏は東京都内で記者会見も開き、「あんな怖い試合はなかったと(アリ氏が)言ってくれた。(2人は)出会うべくして出会った」と世紀の一戦を振り返り、「元気で旅立てよ」と別れを惜しんだ。

カシアス内藤のコメント

ムハマド・アリさんの改名前の名前「カシアス・クレイ」にちなんだリングネームで活躍した元東洋ミドル級王者、カシアス内藤さん(67)=本名・内藤純一=は、かつてアリさんと対面した際、リングネームにすることを承諾してもらった思い出がある。アリさんの訃報に「この名前に背中を押されて悔いのないボクシング人生を歩めた。『ありがとう』と言いたい」と話した。

具志堅用高コメント

「目いっぱいリングを使って(観客に)みせる。あのボクシングはまねしたけど、できなかった。あれほど人を引きつける人は出てこない」と偉大な先達をしのんだ。

オバマ夫妻コメント

「私たちのために闘い、(公民権運動指導者の牧師)マーチン・ルーサー・キングやネルソン・マンデラ(元南アフリカ大統領)と並び立った」と述べ、黒人差別と闘った姿勢を称賛した。

モハメドアリとは

モハメド・アリ(Muhammad Ali、1942年1月17日 – 2016年6月3日)は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。元世界ヘビー級チャンピオン。アフリカ系アメリカ人だが、イングランドとアイルランドの血も引く。ケンタッキー州ルイビル出身。

イスラム教改宗前の本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア(Cassius Marcellus Clay, Jr.)。1964年にネーション・オブ・イスラムへの加入を機に、リングネームをカシアス・クレイからモハメド・アリに改めた。

1960年ローマオリンピックボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得。その後プロに転向し、1964年にはソニー・リストンを倒して世界ヘビー級王座を獲得した。マルコム・Xと出会いその思想に共鳴。イスラム教にも改宗。ベトナム戦争徴兵も拒否する。その発言と行動は当時の米国政府や保守派との深刻な対立をもたらし、世界タイトル剥奪や試合禁止等様々な圧力が加えられた。しかし最終的には、通算3度のチャンピオン奪取成功と19度の防衛に輝いた。

ジョージ・フォアマンとザイールで対戦。8Rでの一発大逆転を演じたタイトルマッチや、ジョー・フレージャーとの死闘など、ボクシング史上に残る数々な名勝負を行っている。ベトナム戦争徴兵拒否により米国政府と長期にわたって争ったが、最終的には無罪を勝ち取った(#リング外での闘い)ことでも知られる。

引退後、現役時代に受けた頭部へのダメージが原因とされるパーキンソン病を患い闘病生活を送っていたが、2016年6月3日死去。享年74。死因は呼吸器疾患とされているが、1984年に患ったパーキンソン病に関係があると思われる。

Wikipediaより

モハメドアリのボクシングスタイルとは?


蝶のように舞い、蜂のように刺す (Float like a butterfly, sting like a bee)

昔から世界最強の男というとボクシングのヘビー級チャンピオンを指すことが多かった。
しかし、かつてのボクシングのヘビー級の試合は大男の力任せの殴り合いだった。そんな中、モハメドアリは巨大なパワーボクサーに対応する手段として軽量級で用いられた華麗なフットワークと鋭い左ジャブを活用するアウトボクシングをヘビー級に持ち込んだ立役者がモハメドアリであり、このスタイルから「蝶のように舞い、蜂のように刺す」という言葉が生まれた。
ノートン戦で敗北した際にノートンのファンから「蝶は羽を失い、蜂は針を失った」という投書が届くも、モハメドアリはこれを気に入り、羽と針を取り戻す決意を新たにするという前向きな性格であった。

ヘビー級史上最速の一人

リング内を動き回る体のこなしだけでなく、相手のジャブに右ストレートでカウンターを合わせるというとんでもないボクシングセンスを持っていた。
ヘビー級においてとんでもないスピードとパワーを持ったマイク・タイソンが出現した現代においてもなお、ヘビー級史上最速と評価されている。

シュガー・レイ・ロビンソンの影響

モハメドアリはシュガー・レイ・ロビンソンを尊敬しており実際にかなりの影響をうけていた。
レオン・スピンクスとの再戦を前に
「俺は三度ヘビー級チャンピオンを獲得する最初の男になる。ヘビー級のシュガー・レイ・ロビンソンになるんだ」
と語っている。
後にシュガー・レイ・レナードを育てた名トレーナー、アンジェロ・ダンディーと常にコンビを組んでいた。

プロボクサーの娘

モハメドアリの娘のレイラ・アリもプロボクサーとして活躍していた。
WBC女子スーパーミドル級の初代チャンピオン。
ジョー・フレージャーの娘であるジャッキー・フレージャー・ライドと2001年6月に対戦した。
蛙の子は蛙という言葉があう功績を残している。

トラッシュトーク

モハメドアリは、注目を集めるために派手なパフォーマンスをし自分に注目を集めていた。また、「俺が最強だ」「俺が最も偉大だ」と公言し、わざと物議をかもす言動をし、試合の相手をからかった詩を発表し、KOラウンド数を予告してリングにあがった。
この態度は当然非常に多くのアンチファンを生み出すが、本人はこの言動の理由を「むろん、厚顔な大ぼら吹きが好きな者はいない。しかしこう言えば、みんなは俺の試合を見にくるし、プロモーター達には、俺の試合の企画が、金になることが判るんだ。野次や怒号の中をリングにあがるのは、いい気分だ。最後は、俺の予告どおりになるんだからね」
と語っている。
ボクシングはアイドルのように人気商売ではない。完璧な実力社会。強いものが稼げる世界において人気取りは必要ないことを証明している。勿論引退後に芸能的な活動をする場合は、多少の人気獲りも必要だと思いますが…。




モハメドアリの輝かしい戦績



アリ、フレージャー、フォアマンはいずれもオリンピックの金メダリスト(アリはライトヘビー級、フレージャーとフォアマンはヘビー級の金メダリスト)であり、オリンピックチャンピオンがプロでも活躍するという流れがこの当時続いていた。アリと同様、ライトヘビー級で金メダルを獲得したスピンクスがアリに挑戦し、番狂わせで王座を獲得したが、アリは再戦で王座に返り咲き、史上初めて、3度王座を獲得したヘビー級ボクサーとなった。

1960年、ローマオリンピックで金メダルを獲得。その後、黒人差別を受け金メダルを川に投げ捨てた。同年10月29日にプロデビュー。

1962年12月15日、老雄アーチー・ムーアに4回TKO勝ち。

1964年2月25日、ソニー・リストンに7回TKO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(2度目)。

1965年5月25日、初防衛戦でリストンとのリターンマッチに臨み、初回の2分12秒で返り討ちにした。

1965年11月22日、2度目の防衛戦でかつての名王者フロイド・パターソンの挑戦を受け、12回TKO勝ち。当時アリはネーション・オブ・イスラム入信を公表しアメリカ社会を激しく批判していた「白人の意のままにならない黒人」だった。パターソンはそれを止めるベビーフェイスとして担ぎ出された。彼もこの報道攻勢に乗せられる形で「タイトルをアメリカに戻す」と発言。それを聞いたアリは失望し、憧れでもあった彼に対して「アンクルトム」と罵り、試合中もレフェリーが止めるまで決定的な強打を打たずパターソンを痛めつけ続けた。

1966年3月29日、3度目の防衛戦でカナダの強豪ジョージ・シュバロと対戦。先の試合で見せた圧倒的な強さから前評判ではアリの圧倒的有利の予想であった。しかしシュバロの徹底したインファイトと執拗なボディ攻撃に苦しんだが、要所で有効打をヒットさせて15回判定勝ち。アリにとってみれば初の大苦戦ともいえる試合であった。

1966年5月21日、4度目の防衛戦でヘンリー・クーパーと対戦。クーパーは王者になる前のアリからノックダウンを奪うほどの実力者であった。試合はお互いの実力が拮抗したハイレベルな打撃戦となったが、クーパーが6回終了後に左瞼からの大出血のためドクターストップで辛くも勝利した。

1966年8月6日、5度目の防衛戦でブライアン・ロンドンに3回KO勝ち。勝負を決めたラッシュはカメラが捕らえきれないほどの高速でありながら、全てがクリーンヒットするという驚異的なものだった。

1966年9月10日、6度目の防衛戦でドイツのカール・ミルデンバーガーの挑戦を受ける。アリは終始パワフルな攻撃を見せるが、ミルデンバーガーは打たれても打たれても強靭な精神力で耐え続けアリが休むと怒涛の反撃を見せる。しかしワンサイドで打たれまくったミルデンバーガーの危険を察したレフェリーが12回に遂にストップを宣告するという壮絶な試合となった。

1967年2月6日、WBA世界ヘビー級王者アーニー・テレルと対戦。試合前アーニーはわざとアリの旧名であるカシアス・クレイと呼んで挑発し、これに怒ったアリは試合を完全にコントロールしたどころかわざと決定打を打たず「俺の名前を言ってみろ!」と叫び続けて完全に打ちのめし判定勝利した。試合後アリは「やつは早く楽になりたかったろうな。奴隷の名前で俺を呼んだ罰だ(当時アリが入信していたネーション・オブ・イスラムではほとんどのアフリカ系アメリカ人が持つ名前を、奴隷主に付けられた名として否定的に見る面がある)」

1967年3月22日、9度目の防衛戦でゾラ・フォーリーを7回TKOで沈めた。この年良心的兵役拒否のため、禁固5年と罰金1万ドルを科せられ(1971年7月に合衆国最高裁で無罪となった)、WBA世界ヘビー級王座も剥奪された。ボクサーライセンスも剥奪され、3年7か月間のブランクを作った。

1969年3月11日、WBC世界ヘビー級王座を剥奪された。

1970年10月26日、世界ヘビー級1位、ジェリー・クォーリーと3年ぶりの試合を行い、3回TKO勝ちして再起を果たした。

1970年12月7日、ジョー・フレージャーの持つ世界ヘビー級タイトルへ挑戦する前の前哨戦で、フレージャーを相手に健闘したオスカー・ボナベナと対戦する。試合前は楽観視されていたが、大苦戦の末に最終回にボナベナから3度のダウンを奪って勝利した。

1971年3月8日、ジョー・フレージャーの持つWBA・WBC統一世界ヘビー級王座に挑戦するが、15回に左フックでダウンを奪われるなどして判定負け。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(3度目)。

1971年7月26日、NABF北米ヘビー級王座決定戦でジミー・エリスを12回TKO勝ちで北米ヘビー級チャンピオンとなる。

1972年4月1日、東京・日本武道館でマック・フォスターとのノンタイトル15回戦を行う。15回判定勝ち。

1973年3月31日、ケン・ノートンに判定負け、生涯2度目の敗北。さらに試合後、顎を骨折していたことが分かる。

1973年9月10日、ケン・ノートンに判定勝ちし、雪辱。

1974年1月28日、前王者ジョー・フレージャーと3年越しの再戦を行い、12回判定勝ち。雪辱を果たすとともに王者ジョージ・フォアマンへの挑戦権を得る。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(4度目)。

1974年10月30日、ジョージ・フォアマンに8回KO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得(キンシャサの奇跡)。その後、10度防衛。

1975年3月24日、無名のチャック・ウェプナーと初防衛戦を行い、15回KO勝ちするが、ダウン(実はウェプナーがアリの足を踏んだため)を喫するなど、ウェプナーが善戦する。この試合を見たシルヴェスター・スタローンは、映画「ロッキー」のストーリーを思い付いた。

1975年10月1日、フィリピンのアラネタ・コロシアムで行われた4度目の防衛戦でジョー・フレージャーと対戦し、14回TKO勝利を収めた。終生のライバルとなったフレージャーとは3度対戦して、2勝1敗であった。興行名を “The Thrilla in Manila” としたこの対戦は両者死力を尽くして形勢が何度も逆転した名試合であり、この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(5度目)。

1976年6月26日、武道館で猪木戦を行う。結果は3分15回を戦い時間切れ引き分け。

1978年2月15日、レオン・スピンクスにニューヨークのヒルトンスポーツパビリオンでの試合で判定負けして王座を失った。この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(6度目)。この後、スピンクスはWBCから王座を剥奪され、WBA王座のみとなった。WBC世界ヘビー級王座には、ケン・ノートンが認定された。

1978年9月15日、レオン・スピンクスに判定勝ちし、WBA世界ヘビー級王座を奪回(3度目の返り咲き・この後王座返上)。

1980年10月2日、カムバックし、かつてスパーリング・パートナーだったラリー・ホームズのWBC世界ヘビー級王座に挑戦するが、11ラウンドTKOで敗れ、奪取ならず。
1981年12月11日、トレバー・バービックに判定負けし、遂に引退。

通算成績は56勝5敗で、このうち37勝がノックアウト勝ちだった。

ノートンに敗北後、羽と針を取り戻し、最終的に史上初のヘビー級王者に3度目の返り咲きという偉業を達成。
大口を叩くが有言実行する男、それがモハメドありだった。

モハメドアリの獲得タイトル

アマチュアボクシング

ケンタッキー州ゴールデングローブ優勝
全米ゴールデングローブミドル級優勝
AAUボクシング競技ライトヘビー級優勝
ローマオリンピックボクシングライトヘビー級優勝

プロボクシング

NABFヘビー級王座
WBA世界ヘビー級王座
WBC世界ヘビー級王座
WBA・WBC統一世界ヘビー級王座

アマチュア時代から活躍する天才型のボクサーですね


かつてのライバルアントニオ猪木のコメントとは?過去の対戦動画も

モハメドアリの訃報の知らせを聞いたアントニオ猪木が言ったコメントは「非常に辛い」の一言。それだけしか発せないほどショックだったんでしょう。
落ち着いたら色々なコメントが出ると思うので追記していきます。


語り継がれる名勝負


モハメドアリ語録



「私は蝶のように舞い、蜂のように刺す。奴には私の姿は見えない。見えない相手を打てるわけが無いだろう」
(Float like a butterfly, sting like a bee. Your hands can’t hit what your eyes can’t see.)
「もし俺を倒すなんて夢を見ているのなら、さっさと目を覚まして俺に謝った方がいい」
(If you even dream of beating me you’d better wake up and apologize.)
「私は奴を寄せ付けない。リングで踊るんだ」

「郵便切手にでもならない限り、私をナメる事はできない」。
その後作られたアゼルバイジャンの切手
「私は偉大だ。そして美しい」
「私は神話を作り、神話の中で生きる」
「大ほら吹き」として話題を呼んだアリの過激なリップサービスは枚挙に暇が無い。これらのパフォーマンス、リップサービスのノウハウをアリに教え込んだのはプロレスラーのフレッド・ブラッシーである。彼とラジオで共演したアリは当初、ブラッシーを有名レスラーのゴージャス・ジョージと勘違いしていた。
「不可能とは、自らの力で世界を切り開くことを放棄した、臆病者の言葉だ」
「不可能とは、現状に甘んじるための言い訳にすぎない」
「不可能とは、事実ですらなく、単なる先入観だ」
「不可能とは、誰かに決めつけられることではない」
「不可能とは、通過点だ」
「不可能とは、可能性だ」
「不可能など、何でもない」(Impossible is nothing.)
アリは不可能という言葉を忌み嫌っており、この他にも様々な所で同様の発言をしている。アディダスのCMでも引用された。
「人間が困難に立ち向かう時、恐怖を抱くのは信頼が欠如しているからだ。私は私を信じる」
(It’s lack of faith that makes people afraid of meeting challenges, and I believe in myself.)
「負けは頭になかった。だが敗北を喫した今、俺を信じてくれた人達にきちんと責務を果たしたい。人生に敗北は付き物であり、敗北を糧にする事が大切なんだ」
(I never thought of losing, but now that it’s happened, the only thing is to do it right. That’s my obligation to all the people who believe in me. We all have to take defeats in life.
アリがケン・ノートンに敗れた試合後のコメント。この言葉通り、アリはノートンとの再戦でリベンジを果たした
「友情は、この世でもっとも説明しづらいものだ。それは学校で教えてくれる知識じゃない。でもその意味を知らなければ、実際何ひとつ知らないのと同じだ」
(Friendship is the hardest thing in the world to explain. It’s not something you learn in school. But if you haven’t learned the meaning of friendship, you really haven’t learned anything.)
「チャンピオンはジムで作られるものじゃない。彼らの奥深くにある『何か』で作られるんだ。例えば願望、夢、ビジョン。そのためにはどんな土壇場でも耐えるスタミナと、少しばかりのすばしっこさ、そして技術と意志が必要だろう。だが意志の力はどんな技術よりも更なる強さを与えてくれる」
(Champions aren’t made in gyms. Champions are made from something they have deep inside them. A desire, a dream, a vision. They have to have last-minute stamina, they have to be a little faster, they have to have the skill and the will. But the will must be stronger than the skill.)
「私、私たち」
(Me,We)
ハーバード大学の卒業式に招かれ、学生を前に話した中で、最後に一言だけアリが伝えた世界で一番短い詩。
「リスクを選ぶ勇気が無い者は、人生において何も達成することが出来ない」
(He who is no courageous enough to take risks will accomplish nothing in life)

モハメドアリは、大口を叩くだけでなく、有言実行して来た。だから、モハメドアリの言葉は重い。
有言実行して来たからこそ心に響く言葉になっている。

モハメドアリの生涯

幼年期

よく、ボクサーは、犯罪を犯したりして校正するためにボクシングを始めるというキッカケがよくあるが、モハメドアリの場合は、自分の自転車を盗んだ犯人に鉄拳制裁を加える意味でボクシングして見ないかと警官に勧められた事がキッカケなので伝説のボクサーモハメドアリが生まれたのは本当に奇跡と言えそうです。

1942年1月17日にアメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビルのルイビル総合病院で、父カシアスと母オデッサの間に、カシアス・マーセラス・クレイとして生まれた。父親と同じ名前であるため、ジュニアが名前の最後についていた。彼は小学生の頃、父親から誕生日にプレゼントにもらった自転車を宝物にしており、それに乗ってよく近所にポップコーンとアイスクリームをもらいに行っていた。ところが、ある日、誰かに自転車を盗まれ、警察にいった際、この時の警官がボクシングジムのトレーナーもしており、彼に犯人に鉄拳制裁を加えるという意味でボクシングを勧め、その警官のボクシングジムに入った。これが、モハメド・アリがボクシングを始めたキッカケになった。


アマチュア時代

同じジムに後の世界チャンピオン ジミー エリスもいたこともあり、練習相手にも恵まれ
アマチュア時代から輝かしい戦績を残している。

ジムに入門後、アリは8週間でアマチュアボクサーとしてデビューした。対戦相手は、アリ同様にデビューしたてのロニー・オキーフだった。試合は3分3Rで行われ、スプリットデシジョンで判定勝ちした。アリが通っていたジムには、後にWBA 世界ヘビー級王者になるジミー・エリスも通っており、アリはアマチュア時代にエリスと2度対戦し、1勝1敗の戦績を残した。この間に、アリはヴァージニア大通り小学校とデゥヴァル中学校を卒業。セントラル高校に進学している。

その後、ケンタッキー州ゴールデングローブで6度優勝し、1959年には全米ゴールデングローブのミドル級で2年連続優勝した。さらに、AAU ボクシング競技のライトヘビー級でも1959年から2年連続優勝を果たした。

1960年9月に開催されたローマオリンピックボクシング競技(ライトヘビー級)に出場。前年度ヨーロッパチャンピオンのポーランドのズビグニェフ・ピトロシュコスキーを判定で破って優勝。


プロ転向と改名



1960年10月29日にプロデビュー。タニー・ハンセイカーと対戦し、6R判定勝ちを収めて、プロデビュー戦を勝利で飾る。また、プロ転向直後にネーション・オブ・イスラムの信徒であると公表し、リングネームを現在の本名である、ムスリム(イスラム教徒)名モハメド・アリ(ムハンマド・アリー)に改めた。この名前は、預言者ムハンマドと指導者(イマーム)アリーに由来する。なお、1975年にはイスラム教スンナ派に改宗した。

1962年11月15日に元世界ライトヘビー級王者のアーチー・ムーアと対戦。試合前に、控え室の黒板に「ムーアを4ラウンドにKOする」という予言を書いてリングに向かい、その予言の通り4ラウンド目に3度ダウンを奪ってKO勝ちした。

1963年3月13日に、元世界ライトヘビー級王座挑戦者のダグ・ジョーンズと対戦。アリが10R判定で勝利。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤー(年間最高試合賞)に選出されたが、アリは試合前にジョーンズを6RでKOすると公言していたため、試合後に新聞からバッシングを浴びた。

1964年2月25日、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンに挑戦。当時史上最強のハードパンチャーと評価されたリストンに対しアリは絶対不利と言われ、賭け率は7対1でリストンが優位だった。しかしアリは臆せず「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と公言。試合は一方的なものとなり、6R終了時にTKO勝ちとなった。アリは試合終了後のインタビューで「I must be ‘The Greatest’!」と興奮冷めやらぬ様子で叫んだ。試合後アリは正式に本名をカシアス・クレイからモハメド・アリへと改名した[2][3]。



リング外での闘い




1960年に勃発し、のちにアメリカが本格参戦したベトナム戦争への徴兵を拒否したことから無敗のままWBAWBC統一世界ヘビー級王座を剥奪され、3年7か月間ブランクを作ったが、復帰後、実力で王座奪還を果たした。また露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返した。その後公民権運動などの貢献が称えられ、ドイツの平和賞「オットー・ハーン平和メダル」を受賞。



キンシャサの奇跡



王座剥奪後の1971年3月8日、ジョー・フレージャーに挑戦する。初めての敗北を喫したが、3年後の1974年10月30日、フレージャーに代わり新王者となっていたジョージ・フォアマンにKO勝ちを収め、王座に返り咲いた。

この挑戦試合はアフリカのザイール(現・コンゴ民主共和国)で行われ、”Rumble in the jungle”というタイトルがつけられていた。当時、一般には全盛を過ぎたと見られていたアリが史上最高のハードパンチャーと目されたフォアマンを破ったため、「キンシャサの奇跡」とも呼ばれる。

この試合でアリは、ロープにもたれながら相手のパンチを腕でブロックし、自分では打ち返さずに、防戦一方になっていたが、一見劣勢に見えながらも、フォアマンの体力を消耗させて、最後の一発で逆転するというクレバーな作戦をとり、見事な勝利を収めた。アリはこの戦法を”rope a dope”と名づけた。

ただし、以降の防衛戦でこの戦法を多用する一方、対戦相手のパンチを被弾することも増加していったため、後年のパーキンソン病の遠因ではないかとする説が上がった。



日本での活動



1972年に初来日。この時は4月1日に東京・日本武道館でマック・フォスターと対戦し、15回判定勝ちを収めた。

1976年の来日では6月26日に日本武道館でプロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」を行う。特別ルールで戦い結果は3分15回を戦い時間切れ引き分け(詳細はアントニオ猪木対モハメド・アリ)。アリのテーマソングである「炎のファイター」(通称「アリ・ボマイエ(ボンバイエ)」、作曲: マイケル・マッサー)は、76年に格闘技世界一決定戦を戦った猪木に記念品として寄贈されたということになっており、「イノキ・ボンバイエ」として歌われている。この歌は、翌年公開の映画「アリ/ザ・グレーテスト」(en)のエンディング・テーマ「I Always Knew I Had It In Me」(作詞:ジェリー・ゴフィン)としてジョージ・ベンソンが全く別アレンジのバラードとなって流れる。ちなみにオープニング・タイトルの「The Greatest Love of All」は後にホイットニー・ヒューストンがカバーして大ヒットとなった。

1998年の来日の際には4月4日に東京ドームで挙行されたアントニオ猪木のプロレスラー現役引退試合のスペシャルゲストとしてリングに上がり、猪木を労った。



病との闘い



引退後にパーキンソン病にかかり、長い闘病生活に入った。公の場に出る機会は大きく減ったが、難病の中でも社会に対してメッセージを発し続けるアリへの評価は、アメリカ社会そのものの変化もあってむしろ高まっていった。

1996年7月19日、アトランタオリンピックの開会式で聖火を聖火台に点火。金メダルを再授与された。この開会式では聖火台の点火者は当日まで秘密にされていたが、女子水泳選手のジャネット・エバンスが、点火台まで聖火のトーチを運び上げた時、アリは彼女からトーチを受け取り、病気のため震える手で点火用のトーチに火を点けた(火が点くと同時にそのトーチは上昇し、上にある聖火台に飛び込んで火が点くしかけだった)。この時、1960年のローマオリンピックで金メダルを得て帰国直後に、レストランにて黒人である事を理由に入店拒否され、メダルを川に捨てたというエピソードが紹介され、改めてアトランタの金メダルが彼に贈られた。

また、練習時に踏まれた右足の小指が骨折し、おかしな位置でくっついてしまったために引退後は軽い歩行困難になっている。



引退後



1990年に湾岸危機に際し、サッダーム・フセイン:イラク大統領との直接対話のため、病をおしてバグダードに赴き、アメリカ人の人質解放に成功する。解放された人のうち6人[4]が、早く帰れる飛行機には乗らず、アリと同じ飛行機に乗って帰国した。

2003年のMLBオールスターゲームで始球式を務め、久し振りに公の場に姿を見せた。

2005年11月9日、アメリカ合衆国ホワイトハウスにて文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与された。

2009年にはアイルランド クレア州エニスの名誉市民に選出され、9月1日に記念式典が行われた[5]。


1977年、ホワイトハウスで開かれた新パナマ運河条約締結の祝宴でジミー・カーター第39代米国大統領(右)と
2012年に開催されたロンドンオリンピックの開会式では、オリンピックシンボル運搬の際に、実に3年ぶりに公の場に姿を現した。



死没



2016年6月3日死去。








ブログ村のトレンドニュースの注目記事で1位になった記事です。

消費税について考察

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赤星の2017年3月26日プロ野球順位予想。セリーグ阪神優勝。パリーグはソフトバンク優勝で決定。

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